こんにちは、あおです。
今日は、私が青空文庫というウェブサイトで出会った、夏目漱石の随筆についてお話ししたいと思います。

青空文庫での出会い

ネット上には、著作権の消滅した作品を紹介している青空文庫というサイトがあります。
私はそこで夏目漱石随筆を好んで読んでいました。
漱石といえば「吾輩は猫である」や「坊っちゃん」「こころ」などの小説が有名だと思いますが、随筆も執筆されていて、意外に読みやすい文体です。

私は漱石の随筆の中でも、「硝子戸の中」(がらすどのうち)という作品が特に好きで繰り返し読んでいました。
この作品は漱石が晩年に書かれたもので、彼の記憶の奥深くに眠る出来事や回想を綴ったものです。

「硝子戸の中」からの一節

それでは、私がの心に特に響いた文章の一部を紹介したいと思います。

だから私のひとに与える助言じょごんはどうしてもこの生の許す範囲内においてしなければすまないように思う。どういう風に生きて行くかという狭い区域のなかでばかり、私は人類の一人いちにんとして他の人類の一人に向わなければならないと思う。すでに生の中に活動する自分を認め、またその生の中に呼吸する他人を認める以上は、互いの根本義はいかに苦しくてもいかに醜くてもこの生の上に置かれたものと解釈するのが当り前であるから。
「もし生きているのが苦痛なら死んだら好いでしょう」
 こうした言葉は、どんなになさけなく世を観ずる人の口からも聞き得ないだろう。

出典:夏目漱石「硝子戸の中」より

この文章は、漱石が辛い境遇にある女性との対話を通じて、死についての考えを綴ったものです。

希死念慮について

お話は少し変わりますが、私はうつ病と診断される前から、「希死念慮」というものに悩まされていました。
希死念慮とは、生きることを望まない気持ちや、死についての考えが頭をよぎることを指します。

私の場合、自分の存在がなくなれば良いのではないかと考えてしまうことがありました
しかも、この気持ちは「間違っているから」と、他人には絶対に話せないと信じていました。
こんな風に自分を追い込んでいた時、引用した文章との出会いがありました。

時を越えて

この文章は、「生きることを肯定できない時があっても、人間は生きるべきだ。なぜなら…」というメッセージを力強く伝えているように感じられました。
そして、これを書いていることで、漱石自身も生きることに対して悩んでいた可能性があるのではないかと思いました。

明治時代の人が、私と同じような気持ちを持ち、それを文章に残したことに、私は不思議と勇気づけられました。

そして、その文章との出会いを通じて、私は励まされることと共に、深い共感を感じました。

「硝子戸の中」は、遠い時代に生きた人の心情が、時を超えて今の私の心に響いてきたようでした。
その文章が持つ共通の感情が、私に安心と希望をもたらしてくれたのです。

希死念慮に苦しんでいた頃、この文章と出会ったことで、私は孤独ではないことを感じました。
過去の誰かが同じような苦しみを抱えていたことを知り、その人の言葉が私の心を支えてくれました。

おわりに

「硝子戸の中」は私にとって、ただの文章ではなく、お守りのような存在になっています。
私の経験を通じて、同じように辛い気持ちに苦しんでいる方々が、少しでも明るい気持ちになる手助けができれば幸いです。
私たちは決して一人ではなく、誰かが過去に残した言葉や思いが、私たちの心に寄り添っています。
誰もが孤独ではなく、自分が存在していることを肯定できる道を歩めるよう願っています。

参考

青空文庫 | 「硝子戸の中」夏目漱石著

岩波書店 | 「硝子戸の中」夏目漱石著 (岩波文庫)